インターネットをやめたい

ステッカーの地層

SNSに流れてくるのが誰かへの怒り、知人のライフステージの進行、うまそうな飯、公開直後の作品に対するおおげさな作品解釈だけになってしまった。 離れたほうがよいのではないかと思いつつもアプリを開いてスクロールし続けてしまう。何らかの文章を読むというよりも数分後には消えている情報を吸って吐いているような感じがする。

ライフステージの進行、うまそうな飯についてはフォローしている知人が投稿しているのでそういうものとして受け止めている。 特にライフステージの変化は自分の年齢からすると本当に仕方がない。

しかしその他についてはSNSアルゴリズムでおすすめとして放流されるので耐え難い。個人記録欲も薄れていることだしいますぐSNSをやめたい。だがやめられない。 なにもアクションすることなく流れてくる情報には抗いがたい。

いいゲーム

後輩に勧められてSANABIというゲームをプレイした。

めっちゃ良かった。

ワイヤーフックを操ってサイバーパンク都市を進んでいく

SANABIはワイヤーアクションゲームだ。
海腹川背のようにワイヤーフックを使い敵を倒し、ロックマンのように壁を登りつつエリア移動を繰り返して目的地に進む。 ゲームパッドでも遊べるようだが自分はマウス+キーボード操作のほうが遊びやすいと思った。

ゲームとシナリオの出来がすばらしい

ワイヤーアクションゲームとしての出来が良いだけでなく、ゲームを通して語られるシナリオが素晴らしかった。

自分は最近はシナリオを読むためにしょうがなくゲームをすることが多かったのでとてもうれしかった。 シナリオとゲームが素晴らしく絡み合っているゲームって没頭しちゃうよね。

火の鳥」のプレイ体験はペイントボールぶつけながらリオレウスを倒していた頃を思い出したぜ

真面目に訊かなくてええか?の気持ち

決着がつくほうが珍しい なぜなら生きている限り物語が続くので

若者かと言われると首を傾げてしまう年齢になるまで物語を読み続け、物語の進行をまずは類型として分類するようになってしまったからか1つのコンテンツに対する集中を欠いてきている。

完結した物語の続編が決定したとき、映画の序盤があまりおもしろくなかったとき、連載、運営、制作、放映を続けるための設定が新たに出てきたときに

「そういうパターンならもう真面目に訊かなくてええか?」

という発想が頭をもたげるようになってきた。

昔だったら律儀にすべて付き合おうとしていたのだろうが、今では手の届く範囲というか新たに追おうという気持ちが小さくなってきた。

現代のフルタイムで働く人々にとって物語は多すぎる。 TwitterのおすすめにはXがYした話(n/m)という漫画を載せたツイートがプロ・アマ関係なしに無限に流れてくるし、新作ゲームの発表で重厚なシナリオという謳い文句は珍しくなくなってきたし、各種配信サービスには様々な時代のドラマが展開されている。

自分が何かを作っても出来の如何以前に見つけられるほうが難しい。 それでも湧き上がるものを作り続けている人はすごいなあと思う。

アナザーコード リコレクション感想

はるか前、初代DSを買ってもらった頃に「2つの記憶」をプレイしたので買ってみた。

ネタバレを若干含みます。 シナリオの真相とかはないはず。

2つの記憶編

次の便の時間なので14歳の子供を離島において帰る船長
クリア後、アレこんなに謎解き少なかったっけ?と思ったので当時の攻略サイトを調べてみたが実際に謎解きが減っていた。

ただしこれは悪いことでもなく、当時のDSのタッチ機能やマイク機能を使った謎だったり、昔のバイオハザードみたいな今やるとツラいタイプのギミックがカットされたのではないかと思う。

プレイ時間が短いぶんあっさり終わる上に、当時は収集要素をすべて集めることで開放されるトゥルーエンドが通常のエンディングとなっていた。

記憶の扉編

カバンを盗まれたと思ったら職場の人間とバーベキューが始まる

当時は続編を買っていなかったので初めてプレイした。 が、15年近く経って色々なタイプのゲームをプレイしてしまったおれには退屈なゲームだった。

小学校の図書館にある中学年向けの本を読んでいるような気持ちになる。 けして出来が悪いわけではないのだが対象年齢ではないという感じ。

ジャイロセンサーを使って球を転がす。ローンチ初期のゲームか?

こういうジャイロを使ったギミックはDSやWii初期のゲームを思い返し懐かしくなった。 いや、1-2 SwitchとかARMSとかSwitch初期でもハードの特徴を使ったゲームは出ていたけども。

最後までプレイしたがまあ…うん…って感じだった。
真相は全部口頭で話される。

クリアすると昔のコスチュームが開放される。へそ。

公開状態

年末に食べた超・うまい馬肉

自分の生活状況を残しておきたいという気持ちでブログを始めたわけだが、なんだか意欲がなくなっていた。
理由は以下だ。

読み返すことがほとんどない

他の人に伝える意図なく文章を書き続けており、実際に読者はいない。
書いた時点の自分の状況を思い出せたらなあとも思ったが中身まで読み返すことは少ないし、自分が過去を振り返ったときには嫌な思い出のほうが想起されやすいのであまり振り返らなくなった。

継続への意欲の減退

それでも公開されるWEB上に文章を書いていたのは
「消えやすいWEB媒体で長くブログを続けていたら某の栄誉を受けられるのでは?」
というものだった。記憶はあやふやだが本当に最初にブログを始めたときはそんな感じだった。

ただ、そう考える人は自分以外もいたし、栄誉を受けているのはやはり人を楽しませようというエンターテイナー気質な人だった。

自分はそうではないので栄誉はなさそうだし、楽しみ以外で他の人に与えられそうなものもないので最近はじっとしていた。
ただしブログのおかげか文章への苦手意識はなくなったのはよかった。

書くべきことが少ない

一日は24時間あるわけだが、

  • 8時間が労働
  • 食事や家事、風呂など3時間
  • 7時間睡眠 で、残りが6時間。

3時間くらいインターネットをしたり元気がないので横になったりして1時間サーモンランをしている(やめたい)。

残りの2時間くらいが完全に自由な時間だろうか。
一人暮らしを始めてからノートに日記を書き続けており、日記を書くと1時間くらい過ぎる。 よって元気がないときは実質1時間、あるときは4時間くらいだろうか。

別に日記と同じ内容をブログに書いてもよいのだが、同じことを二回書くほどに文章を書くのが好きでないので放置してしまった。

突発的な落ち込み(多分これが一番デカい)

久しぶりに社で複数の人と行動する機会があった。 酒が場にあり、飲むかどうかは自分の判断でよいにも関わらず飲んでしまったことで不用意な行動を複数回してしまったのでかなり落ち込んだので非公開にしてしまった。

それでもまた公開状態にした上で記事を書いているのは実家ですることがないのに加えて、眠いのに眠れないことが大きい。
最近のブログ記事は眠れない日に勢いで書いてしまうことが多い。

年賀状すら今年は出していないので後でちゃんと描こうと思っている。後っていつだ?

アーマードコア6

今月は観た映画の気になったところをわざわざ図を描いて記事にした。 ネガティブなことばかり書くのもなあと思い非公開にしたが、今月の記事を書くために思い返してみたらアーマードコア6をしていたことを思い出した。

強そうな見た目が自己認識に全く合わないのでロボットをかわいめの色にして間抜けに見えるようにしている。

破綻した設計の末路

買ったのは先々月くらいだが心が弱ぇので長時間プレイできない。
海を越え、ヴェスパー7排除ミッションの再プレイで六文銭を倒そうとしたまま投げている。

この頭が全身の曲線に合っていて好きなのだが…

頭だけ四角いが僅差でこっちのが全体的にスペックが高いのだ

軽量逆足でぴょんぴょん跳んで距離を取りつつ全弾を撃ち、適当なところでバズーカを撃ってスタッガー値を削ってダウンを取る戦法だ。

ただ、前哨戦のスウィンバーンはシールドを張ってくるから弾が通らない上に回復するので圧勝とは行かない。 加えて六文銭は軽量で素早く、こちらと似たような戦法を取ってくるので消耗している分だけ不利だ。

かと言って近づいてもできることが少ないし六文銭はショットガンを持っていたりする。 おれのACが被弾が弱いので即スタッガーである。

重戦車みたいなので行くしかないのか…?

シン・ゴジラってかなりきしょい構図なんじゃなかろうか

ゴジラ-1.0を観た。

なんだか説明的な構図だなあだなあと思ったのでメモとして書く。
その辺がシン・ゴジラと比べて見やすいとかオタクっぽくないとか言われる理由なんだろうか。

主に3DCG合成がしやすい構図になっているのかもしれない。
あとは変な構図だと説明のためにカットを割る必要がある=何度も撮る必要がある or カメラを増やす必要があるからだろうか?

三人が喋っているカットがこんな感じで漫才撮ってんのか?みたいなど真ん中に人物を据える感じだった。

しかも左の人のセリフが全然ない

戦闘機に乗っている構図はこう。わかりやすさのためか飛行帽も被っていなかった。
機銃を撃つときは戦闘機の全体が画角にに入っていたと思う。

運転中を撮ってる感

駆逐艦の乗員がゴジラを見つけたときの構図はこう。このあとゴジラがでかでかと映されたと思う。

あ、あれはなんだ!?といわんばかりの構図

人物を全身が入っているか、人があまり重ならないような構図だったと思う。重なるときは卓を囲むときくらいか。

ここでシン・ゴジラの予告をみてみる。

初っ端から暗闇で嘶くゴジラで始まる。
そのご地面に立った一人称視点で振り回される尻尾を見上げる場面。なにかな?と思ったらゴジラの引き、顔のアップで始まる。

0:25の後ろ頭と向かい合う人くらいは普通の映画でもあるかもしれないが、0:27の後頭部の奥の人を撮ったりはシン・ゴジラ(というか庵野秀明)の構図なんじゃなかろうか。

0:56でカメラ外からヘリが入ってくるし、1:01の戦車の右後ろから砲塔の回転を撮るカットはかなりきしょいのではと思えてきた。
予告にはないが本編にはヘリの機銃視点のカットもある。 一言も喋らず劇伴だけで最後にタイトル。

対してゴジラ-1.0の予告を見てみる。

逃げる群衆。画面の揺れだけで映っているのは全身でかなり三人称的である。

場面が変わって電車の運転手、飛んでくる電車。わかりやすく全体が映っているし線路に突き刺さる。
煙。なにかな?と思ったら電車の中の女性が「あれが…ゴジラ」とつぶやく。電車の窓の反射にゴジラが映っている。吠えるゴジラ

もうわかりやすい。 シン・ゴジラが説明していないというわけではないがゴジラ-1.0は出来事も構図もシンプルだ。

真っ暗闇で嘶くゴジラの鳴き声でこれはゴジラの予告だぜ!と始まるのは婉曲的に思う。
これだけでゴジラとわかるのは間違いなくゴジラを前から知っている人だろう。

普段CMとして挟まれたときや集中して観ていなくても何しているかわかるのは圧倒的に-1.0なんじゃなかろうか。

ゴジラ零戦駆逐艦や戦後の銀座をはちゃめちゃにする、一番観たいところは観れたのでそういうものと思うことにしました。